大学に馴染めない
3ヶ月ぶりに学校に行った。
踏みつぶされ 生きるよりも先に死んでしまった銀杏をつま先で避けながら、もうこんな季節か とため息がでた。
卒業に必要な条件は全て揃ったらしい。ゼミも卒論もないわたしは他の人より一足早く、ひっそりと、16年間の学生生活に幕を閉じた。
学生最後の記憶が 大嫌いな銀杏の匂いになってしまうのはなんだか癪だったので、これまでの日々を 走馬灯のように振り返りながら家に帰ることにした。
大学には片手で数えるほどしか友達がいない。そのうち1人はキャンパスが違うし、残りの3人はテスト期間しか姿を現さないレアキャラだ(かくいうわたしも遅刻常習犯ではあったけれど)。
わたしはいつもひとりぼっちで、キラキラに擬態した ギラギラのマウント合戦を眺めていた。
自分としては極めて第三者であり傍観者のつもりでいたけれど、名前もわからない(のに顔だけは覚えてしまった)彼女達からすればわたしはきっと敗者なのだろうなと ぼんやり感じていて、そのことが至極苦痛だった。わたしの大学嫌いの根源はここにあると思っている。
休み時間の賑やかな、高らかな笑い声はいつも、わたしの耳だけではなく 萎縮して丸まった背中を劈いた。
ボリュームを上げすぎて音割れしたイヤフォンと スマホの小さな画面だけが味方をしてくれたし、Wi-Fiを自由に使えることが唯一 大学のすきなところだった。
わかっている。これは自意識過剰なのだと。実際はわたしの存在なんて誰の視界にも記憶にもないのだろう。
それでもわたしは、“私たちいま最強に楽しんでます”というアピールにも似たオーバーなテンションがどうしても苦手だった。可笑しくて思わず溢れてしまう笑いとは明らかに何かが足りない、もしくは足りすぎている笑い声がしぬほど不快だった。
この小さな社会に馴染めなかったわたしを嘲笑っている気がして心が休まらなかったのだろう とおもう。
ほんとはそんなはずない 自過剰だとまで分かっているのに尚、気になってしまうことをやめられなかった。
もはや病気だ、笑える。
不思議なのは、大学以外のコミュニティではなんの問題もなく生活できていることで。中高の友達は月イチかそれ以上で集まるくらい仲が良いし、アルバイト先の人とも海外旅行に行くくらいには良好な関係を築けている。
さらに言えば、わたしはカラオケも牛丼も焼肉もなんでも1人で行ける。人の目なんて気にならない。
どうして大学という世界だけが苦手なのだろう。
牛丼屋で隣に座るおじさま方の視線は気にならなくても、隣で授業を受ける学生の視線に耐えられないんだろう。
この謎が解ければきっと、わたしはもう少し大学をすきになれる気がしていたけれど、結局わからないまま卒業してしまうんだなあ。
原因がわからない限り同じことを繰り返してしまうかもしれないと、ふと怖くなった。
春からわたしは社会人になる。
会社には適合できるだろうか。
どうしたら馴染めるのだろう。
はあ。長文書いたところで、オチも謎解きもない。それでも生きてこれたからなんとかなるかなって思ったりもしている、根が楽観主義者なので…
半年間延長になった人生最後の夏休みにわたしはこんなことを考えていたよっていう、しるしです。
だいすきなだいすきな スーパーヒーローに倣って、自己啓発本でも読んでみようかな。
読書の秋だしね。